直診協会についてABOUT

国保直診施設の設置と機能

1.緒 言  国民健康保険直営診療施設(国保直診施設)の設置目的は、本来無医村、無医地区、医師不足町村地区を解消して、国民健康保険(国保)の療養の円滑化を図り、その事業の運営に支障を及ぼさないことにある。そのため国保直診施設は、被保険者に対して適正な診療を行うばかりではなく、国保の保健施設の中心として、住民の健康管理を行うために、疾病の予防と診療の一体的な運営を図らなければならないとされている。
 歴史的にみて、国保直診施設は国保の普及、国民皆保険制度に重要な役割を果たした。事実昭和20年代は国保直診施設がなければ、国保への加入促進を実施できない市町村が多く、国保制度実施のために国保直診施設を創設した市町村が多かった。
 昭和24年、国保連合会内に直診運営協議会が設けられ、医師部会、事務部会とあり、医療従事者の確保、経営管理の合理化対策などを協議し、当時不足がちな薬剤、衛生材料の共同購入などを行った。
 国保は国保直診施設とともに、村から、町から、農山漁村から始まった。千葉市、船橋市、市川市などの県下の大都市が国保を施行したのは、昭和34年から36年にかけてのことである。

2.直診施設と国保事業 (1)国保直診の開設  この開設は旧産業組合時代のものや、旧国保代行組合(旧農協、漁協)又は旧普通国保組合(町村)、公営後の市町村やその一部事務組合営まで数多い。その規模、創設の経緯、内部機構、設備内容なども千差万別である。しかしその目的は諸言に記したごとくであり、医療に恵まれなかった農山漁村に多く発生し、地域住民の健康保持に専念し親しまれながら、国保制度の基礎づくりをし、国民皆保険制度の母体となったことは、何人も否めない事実である。
 国保直診施設は昭和18年、君津郡の中郷診療所が開設されたのをはじめ、昭和40年代は病院24、診療所65、計89の開設をみた。このように多く開設された裏には、医療面で行き詰まり、休止寸前にあった国保事業の再建と、国保普及の段階で信頼される国保をうち出すために、当時の千葉県知事は国保直診施設普及計画を千葉県の重点施策としてうち出し、どうしても市町村国保直営の病院、診療所がなければならないとして、山間へき地の医療の恵まれない地域に、数町村の連合による「○○町外△町村国民健康保険団体連合会□□病院」や、町村単独の国保直診病院が開設されるとともに、農山漁村に一カ所程度、医師一人、看護婦一人、事務一人程度の陣容による、ささやかな乙型診療所が国保診療所として開設されていったのであった。しかし国保が地域住民の身につき、国保医療が一般医療機関の協力と相まって、なお、特筆すべきことは国保直診施設勤務医師の確保困難、経営困難のために、国保直診診療所は次々に消滅し去っていき、現在では7の診療所と1の出張所として残っているに過ぎない状態である。現在は、病院16、診療所7、出張所1が活動している。これに反して、各郡に1.2カ所程度開設された国保直診病院は、病院長に人を得、その病院長の日夜を分かたぬ血のにじむような努力と開設者の深い理解によって、施設の拡充強化、近代化が行われ、地域における医療の確保と疾病予防の総合医療センターとして大きな役割を果たしつつ、たゆみなき前進を続けていることはうれしい限りである。

(2)国保直診施設医師  昭和23年、国保法の改正により、従来から組合営であった国保事業は、市町村の公営するところとなり、診療施設も市町村の直営診療施設と名称を変え、前号で述べたように国保普及と相まって各地に開設されたのである。ところで国保直診施設に勤務する医療従事者の充足状況は、どうであったであろうか。
 第二次世界大戦敗退という形で終結したために、海外各地の野戦病院に、あるいは、艦船乗組の軍医として従軍していた医師たちが内地に引き揚げ、出身医大の医局にあるいは、陸軍病院から国立病院となった各地の病院に寄萬されていた。これらの医師の方々が大学当局の好意と、自らの意志により県内国保病院、診療所に派遣され、または勤務されたのである。千葉県が全国保直診施設に医師が充足でき得たのも地元に千葉医大があり、かつ、近接する東京に各医大があったことと、県内出身者の医師が多かったことにもより、当時の開設者は現今ほどの困難もなく医師の確保ができたわけである。多くの国保病院の院長先生方 ― たとえば、終戦のあくる年、まだ世相が混沌としていた当時、国吉病院の尾本院長をはじめ、多古中央病院の西澤院長、旭中央病院の諸橋院長、小見川中央病院の小林院長など国保苦難の時期を脆弱な施設のなかで、あらゆる困苦、それは肉体的にも、物質的にも耐えて、地域医療の確保と住民の健康保持増進に、国保事業の進展のためにと日夜分たぬ活躍を続けられ、今日の本県国保医療の確固たる基礎を築きあげられたのである。
 しかしながら、国保直診診療所に勤務されていた先生方や国保直診病院勤務の医局員が、勤務期間中の蓄財と開業医の魅力により、それぞれの土地に自分の城を築いて開業されるようになってから、国保直診医師の確保はしだいに困難となっていった。そのため、勤務医師の交代は頻繁となり、長くて3年、短いものは1年で交代するという事態が生じた。診療所をかかえた市町村の医師さがしは、市町村にとって大きな困難な仕事となり、赤字は増大する一方で、一般財源からの投入の限度があり、そのために国保直診施設問題は、いつの市町村議会において議論の的となり、休廃止への道をたどったものも少なくなかった。
このため、昭和47年に全国の都道府県が共同で設立した学校法人、自治医科大学を立ち上げ、医療に恵まれないへき地等における医療の確保及び地域住民の福祉増進に役立たせようとした。これは、各都道府県から毎年2名程度の学生を公募し、医師資格取得後に9年間の義務年限を設け、出身都道府県のへき地等の病院勤務を行わせるものであり、画期的な事業である。ちなみに本県では、昭和53年の第一期生から平成26年までで82名の卒業生が各国保直診病院に派遣され、とりわけ規模の小さい国保直診病院では医師確保に欠かせないものとなっている。現在は、前期、後期に分け、それぞれ2名、年間4名程度の医師を派遣している。  なお、派遣にあたっては、自治医科大学卒業生配属先選定委員会設置規程により選定委員会を開催し、結果を全国自治体病院協議会千葉県支部を通じて、県当局に報告している。

(3)看護学院  国保直診施設に勤務する看護要員の確保も十分とはいえず、市町村はその対策に頭を悩ましていた。このような事態に当面した県並びに国保連合会は、慎重な検討協議を重ねた結果、自らの手で看護要員の養成を行うための準備を進め、昭和28年5月、香取郡多古町に多古中央病院を母体として、国保連合会の直営による多古准看護婦養成所を設立した。
 西澤多古中央病院長を初代校長として、千葉医大第一外科の主任看護婦であった布留川輝子氏をくどき落として専任教諭とし、その他一名の教諭をおき、各国保直診病院の外科の医師並びに多古高校の諸先生方を院外講師として、准看護婦の養成に乗り出したのであった。しかし、教育をすべき施設も、当時の国保連合会の財政事情から建設不能であったために、多古高校定時制の校舎を昼間借り受けるなど、あらゆる困難を打破して開校したものであった。この多古准看護婦養成所は、昭和38年4月から、直診協会立となり、40年3月まで11回の卒業生、計213名を送り出し、同年4月には、小見川准看護学院へと引き継がれた。しかし、医学の進歩に併せ、高度の看護技術が要求されるようになり、当時の小林学院長は、看護のレベルアップを図るため、進学コースにすべく関係各方面に働きかけ、その結果、昭和60年度に建物内部の改造、施設の整備を図り、61年4月、国民健康保険小見川中央病院付属看護専門学校を開校し、翌62年3月、500名を超える卒業生を送りだした小見川中央病院付属准看護学院を閉校した。この間、平成元年には病院の名称変更もあり、国保小見川総合病院附属看護専門学校と名称が変更された。
 なお、経営主体は、国民健康保険小見川中央病院付属看護専門学校設立後は、小見川町外二ヶ町病院組合として、その後、市町村合併を経て18年3月より香取市東庄町病院組合となり、令和元年9月より香取市が設置主体となり運営を続けております。

(4)開設者の苦心  国保直診施設建設の段階において当時の開設者並びに関係者は、非常な苦痛と戦わなければならなかった。
 終戦直後のまだ郷土の復興もままならないときであったから、建設資材の調達は極めて困難で、工事の進捗も予定どおりにはいかず、建設中途で一時中止することもままあったわけである。
 現在、山武郡横芝光町に開設されている東陽病院の北側にある旧病院跡地に、当時の開設者伊橋甲子男氏の頌徳碑が建てられてある。当時の氏は寝食を忘れて病院建設に打ち込んだが、その尊い姿を浮き彫りにしている。氏は建設資材、とくに釘不足に悩む大工の訴えをみるに見かねて、リヤカーを引いて各地区の家庭を回り、古釘集めをするとともに、工事現場に落ちている釘を拾い集めたということである。このような苦労は、当時国保直診施設の開設に当たられた関係者が大なり小なり味わわれたものである。
 旧兵舎の古材の払い下げで建設したものも多かった。そのために各施設とも管理面において多大の支障を生じ、あるいは数年を経たずして老朽化し、再建への道をそれぞれたどったものである。開設者並びに管理者の苦心も並大抵ではなかった。
 医師確保はもちろん、看護師をはじめ医療従事者の確保が厳しい時代となり、病院経営に行き詰ってきたのである。国から支給される交付税だけでは病院経営が成り立たず、多額の一般会計を繰出さなければならなかった。市町村議員との調整も大変であった。
 さらに、平成20年に総務省から通達のあった公立病院改革ガイドラインで病院経営の大改革をする必要性を迫られた。「経営効率化」「再編ネットワーク化」「経営形態の見直し」を行い持続可能な公立病院を築き上げようとしている。この結果、徐々にではあるが、経営状況も好転の兆しがあるものの、依然として厳しい医師不足が解消されない限り、開設者、管理者の苦悩は続くものと思われる。